田中 躬之 たなか みゆき
   

春こまを
かすみたつ はるのひかきにあくかれて
夢はさむなり ひはりきくこま
春小間(=少しのあいだ)
霞立つ 春の檜垣にあくがれて(=うわの空になる)
夢はさむ(=さめる)なり 雲雀聞く小間
29.4p×35.6p

寛政8年9月21日(新暦 1796年10月21日)生〜安政4四年7月19日(新暦 1857年9月7日)歿
通称兵庫、菊園と号す。石川郡本吉村(現 石川県白山市)の儒医の家に生まる。少壯(=若くして)京師(=京都)に至り、皇学(=国学)を加茂季鷹に受け、医術を新宮涼庭に学ぶ。天保5年(1834)家に帰り、6年居を金沢に移して町儒医となり、国典和歌を教授す。当時藩の歌人多く新調を喜び、争いて軽佻浮薄(=上っ調子)の体に陷り、たゞ荒井貫名・五十嵐篤好等数人の古調を崇ぶものありといへども、詞格何れも渋晦(=難しく解りにくい)にして時流を左右するに足らざりき。然るに躬之の歌風を見るに及び、人々争いて之(これ)に赴き、青木秀枝・淺野屋佐平・高木有制・大野木克敏・石黒千尋・山下清臣・狩谷鷹友・高林景寛・高畠米積及び高橋富兄等、その門に入るもの甚だ多し。加賀藩歌道の盛なること実に躬之に始まる。嘉永5年(1851)前田齊泰之(これ)を召して、明倫堂皇学講師となす。大夫奧村榮實亦(また)深く躬之を信じ、屡(しばしば)延見(=接見)して道を聴けり。安政4年(1857)齊泰類聚國史の欠逸を憂い、儒臣に命じて之を補修せしめ、躬之をして編纂の事を督せしむ。業未だ緒に就くに至らず、同年7月19日を以て歿せり、年62。著す所『菊園遺芳』・『園の菊』あり。『園の菊』は、その子猛之の作をも合輯せり。
(『石川県史』 第三編 本文閲覧 第三章 學事宗教 第五節 國學(下)より転載)

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